放送内容

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第191回 陸上 やり投げ 齋藤由希子

2019年11月17日

陸上 やり投げ 齋藤由希子。
やり投げの日本記録保持者でありながら、円盤投げでも日本記録をもち、さらには、砲丸投げで世界一に。
そんな投てきのスペシャリストの彼女には誰にも負けない武器がある。

「全身を使ったパワフルスロー」

砲丸投げ選手として中学時代から健常者と同じ舞台で戦い、培ったパワー。
その体をフルに使って投げる槍は国内で敵なし。
目指すは来年の東京パラリンピック。
夢舞台に近づくための重要な戦いへ、齋藤由希子の挑戦を追った。

今年6月。
大阪で日本最高峰の大会が開かれた。
齋藤選手はやり投げに出場。
5回目の投てき。記録は28m43。
2位に7m以上の差をつけ、優勝した。
翌日、齋藤選手は砲丸投げにも出場。
その1投目、記録は10m71。こちらも優勝。
実は齋藤選手、砲丸投げの世界記録保持者。
パラリンピックに一番近い種目のはずですが…

齋藤「やり投げ1本 いまはやり投げ選手として、2020東京にチャレンジしてます」

パラ陸上は障がいの種類や程度によってクラスがわかれている。
齋藤選手はF46クラス。砲丸投げはなく、投てき種目は、やり投げのみ。

福島県福島市。
ここが齋藤選手の練習拠点。コーチを務める夫の恭一さんと共に汗を流していた。
齋藤選手は宮城県・気仙沼市出身。
小さい頃から活発で運動が大好きな女の子だった。
投てき競技との出会いは、中学生のとき。
肩の強さを買われ、クラスの担任に砲丸投げを勧められたのがはじまり。

齋藤「片手のことをハンデだと思って部活動選びに悩んでいた。一人で試合に出て、片手で持って片手で投げるのはいい。自分片手だけど(健常者と)同等に戦える。楽しくてそこからですね。」

健常者と同じ舞台での戦いを求め、高校は投てきの強豪校へ。
すると10年連続インターハイ出場がかかった大事な年には、キャプテンを任されるほどの選手に。
陸上を続けるべく大学へ進学。
そこでパラ競技と出会うと、大学3年生でいきなり世界新記録をマーク。
さらに大学時代に出会ったのが、当時、砲丸投げを教えてくれていた大学の先輩、恭一さん。
現在はパラリンピックへ向け、夫として、またコーチとして齋藤選手をサポートしている。

現在は、砲丸投げからやり投げへ。
日本記録保持者の齋藤選手。
その記録を出した要因が彼女のストロングポイント「全身を使ったパワフルスロー」。

齋藤選手は他の日本人選手と比べ、「しなり」が強いという。
「しなり」とは投げ出す直前の体を反らす動き。飛距離を伸ばすためには、この「しなり」が重要。

齋藤「感覚としては砲丸投げと共通。同じようにしなりが大事」

砲丸投げ世界記録保持者の齋藤選手、飛距離を伸ばすための「しなり」は体に刻み込まれている。
もう一つ、飛距離を生むために重要なのが「左手」。

齋藤「基本的には投げたい方向に向かって、下半身構えて左手を出して、そこに向かって右手を入れかえる」

「左手を出して右手を入れかえる」。
そうすることで体の軸が安定し、飛距離に繋がるという。
障がいのある左腕の意識を高めるため、行っていることが専用の義手を使った左腕のトレーニング。
両腕を上手く使えるようになった結果、軸がぶれないフォームを手に入れた。

齋藤「左腕に筋肉がない。自由に使えない。頼れない。右でがんばろうとして右だけに頼っていた。左右に対してバランスがとれるから、体の中心に軸を置いて出来るようになった。鍛えたおかげ」

ストロングポイントの「全身を使ったパワフルスロー」。
齋藤選手の強靭な「体のしなり」と「左腕」に支えられていた。

7月上旬。
来年の東京パラリンピック出場へ重要な大会が開かれた。
東京パラリンピック出場内定への最大の道が世界選手権での4位以内。
実はこの大会を含めた3大会に世界選手権の選考がかかっていた。
世界選手権の派遣指定記録は33m42。
齋藤選手の自己べストは32m91。あと51センチ。
この日の最高記録は30m70。派遣指定記録には届かず。
すると、齋藤選手から思わぬ事実が語られた。

齋藤「肘がはく離骨折だった。今は治りかけで完治はしていない」
 
肘は投てき競技にとって生命線。痛みの恐怖と戦いながら投げていた
5月に痛みが生じ発覚した肘のはく離骨折。
全治は1か月。
7月のこの大会に合わせ、その間もずっと練習を続けていたため、完治には至っていないという。
次の大会は2週間後。
その大会が世界選手権出場へのラストチャンス。
肘の不安が残る中、戦い続ける理由、それは故郷でのあの出来事が関係していた。
それは、高校時代、齋藤選手のふるさとを襲った、あの出来事。
宮城県、気仙沼。
当時の津波の高さが復興しつつある街に記されている。
当時の記憶が齋藤選手の原動力にもなっているという。

齋藤「2020東京で開催が決まったとき、復興五輪という言葉があった。被災地の代表として注目していただける機会があった。自宅が流された。ウェアがなくなった、シューズがなくなったときに国外から送られてくるシューズやウェアを頂いたりした。競技を続けている中で恩返しをしなきゃいけない。送ってくださった方はわからないだろうけど、被災地に送ったことが自分に繋がっていると思ってもらえたら、自分がパラリンピックの舞台に立つ競技者として記録を残す価値が出てくる」

東京パラリンピックで頑張っている姿を見せて、支えてくれた人たちに恩返しがしたい。
肘のケガにも屈せず、挑んだ、7月下旬、ジャパンパラ大会。
東京パラリンピック内定のためには世界選手権の4位以内に入る事。
その世界選手権に出場するためにはこの大会で派遣指定記録を突破しなければならない。
派遣指定記録は33m42。
齋藤選手の投じた2投目。
記録は30m28。
これがこの日の最高記録。

齋藤「世界選手権の派遣記録が目標だった。それが出来なかったのは力不足。来年東京に向けて可能性がゼロになるわけではない。チャンスがあるのであれば、もう一度東京へのチャレンジをしっかりしたい」

東京パラリンピック出場へはまだチャンスはある。
来年4月までの国際大会で世界ランク6位以内を記録すること。夢の実現へ、齋藤選手は更なる高みを目指す。

齋藤「競技者としても来年27歳で迎えるパラリンピック。競技面でもパフォーマンス高く出来る。今出来ることをしっかりして、2020年東京パラリンピックの舞台に立ちたい」

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