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1940年1月15日生まれ。甲南大学経済学部卒。
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200年以上の伝統と実績、日本を代表する製薬会社である武田薬品。代々、長兵衛の名を受け継いできた武田家の後継者たち。それは家訓の継承でもあった。そんな武田を世界のタケダに押し上げた偉大なる革命児・武田國男会長。七代目社長を勤め、一兆円企業に押し上げた最大の立役者である。誰も知らなかった自称『武田の落ちこぼれ』の実力とは?!大阪・道修町の慣わしによる三男ゆえの日の当たらない窓際人生。社長になる予定などなかった國男氏の起死回生の大改革。その特効薬はタケダの売り上げと株価を三倍に跳ね上げさせた。その極意とは?波乱に満ちた人生に迫る。
―― “200年続いた武田薬品の御曹司の会長”、やっぱりこういう見方が一般的にはありますが、実際は会長ご自身はものすごく苦労されてこられましたよね。
まあ、御曹司か何か知りませんけどね、その苦労の中にもいろんなカテゴリーがあると思うんですよ。極貧から苦労してすごいお金持ちになるとか。私なんか苦労のうちには入らないと思いますね。
―― そもそも武田家のある大阪の道修町というのは、薬の会社が長年続いてきた街ですよね。道修町は長男をとにかく大事にする街で、将来内輪の争いが起こらないようにと、跡継ぎの長男と、それ以外の兄弟は別に育てていたというのは本当ですか?
そうなんです。やはり幼少の頃から帝王学を学ばすということなんでしょうね。長男と他の兄弟とでは全然違うと思いますよ。まず父親が息子を見る目が全然違う、長男が生まれた時からいかに会社を継がすかということを想定しながら育てたのでしょうね。それが自然体で、私も兄が継ぐと思ってましたし、すべての人がそう思ってるんですよ。
―― とても壮絶だなと思ったのは、お兄さんが若くして急逝された時に、お父さんが國男会長をご覧になられて「何で長男が死んでお前が生きとるんだ」という顔をされたということですが。
80年2月に亡くなって、親父はガックリきたんでしょうね、それからなんか魂が抜けた感じになりましてね。生まれた時からずっと必死で育ててきた跡継ぎが、パカっと無くなったんですからね。それで胃潰瘍かなんかで入院したんですよ。会社の帰りに見舞いに行った時にそんな顔されましたね。その二日後ぐらいに死にました。「ああこれはえらい悪かったな」と思いましたよ。俺が死んでたら親父ももっと長生きできたし、もっと幸せやったんと違うかなという感じはしますな。親父にしてみたら「この出来の悪いガキが」といつも思ってたと思うんですよ。そいつが生き残って自分が手がけてきた奴が死んで、「何で」という感じになりまっせ、僕でも。
―― 93年に(國男氏が)社長になられて以降の武田薬品の変化というのは驚くべきものがあって、世間に合理化や改革とかいったような概念が全くない時に、劇的な手を打っていかれましたよね。
アメリカに私どもが50%出資しているTAP社という会社があって、その副社長として出向していたんです。やはりアメリカでいろいろ学んだというか、アメリカの会社と武田薬品とを比べてみますと、粗利益比率が全然違うわけですよね。こんな状態ではグローバル化できないと思いました。そのとき医療費抑制策というのがだんだんきつくなりつつあったし、やはり生き残るためには海外に出て行かなくちゃならない。絶対にアメリカで成功させなくちゃならないし、高付加価値化を目指さなくては武田としても生き残れないだろうということで、帰国後、データ集めをやりだしたんです。でもそのデータがなかなか集まらないんですよね。そのぐらいの会社だったんです。新製品を出すためには非常に苦労しますけど、結局、薬の利益率っていうのは高いですよね。それと比べて他の事業部は粗利益率が非常に薄いわけですよ。だから他の事業部は独立化を目指し、タケダ自身はコアである医薬へ回帰していく。当時からこれができるかできないかということを一人で考え始め、しなくちゃしょうがないだろうと思っていて、社長になってそれをまず言ったんです。皆さんいろいろ言われるけどやはり最後は金じゃないんですか?何かそんな感じがしてしょうがないのですけどね。
―― そうおっしゃりながらも、人の生き方としては、やっぱり武田家の家訓というのは「誠実に生きること」だとおっしゃっていましたよね。
私つくづく思いますけどね、やはりタケダというのはメーカーですよ。ご存知の通り薬というのは、ひとつの新製品作るのにものすごい時間がかかる、それから莫大な投資がかかる。結局、安易な形や方法では新製品なんて出ないんですよ。やっぱり毎日毎日コツコツコツコツ誠実に、努力して初めて出てくるものであって。やっぱり私が育った環境というのはそこなんですよ。ですからそこしか見てないんですよ。
―― ご自身がこうだというものを考えて、それを具現化してくれる人間を一本釣りで引っ張ってこられましたよね。こういうやり方というのは一歩間違うと社内の大混乱を引き起こすし、その人間が本当にいいのかどうかということがありますよね?
結局ね、こういう組織の中で上に上がっていくというのはなかなか要領のいい奴なんです。私そういうの嫌いなんですよ。ですから案外左遷なんかされてる人のほうが非常に素直で勤勉家で、そういう中に素晴らしい人がいると私は信じてたわけです。やっぱり出てくるものですよ。そして社長になる三年ほど前には自分の構想は大体固まっていて、それをどういうふうにやっていくかだけだったんです。ちょっと強引ですけどね。しかし私が考えたその方向が間違っていたら大変だったでしょうね。それだけが一番恐かったですよ。毎日毎日いつでも、寝てても「大丈夫かな」ってそればかり考えてましたけどね。
―― 社長になって一番辛かった時期はいつですか?
それはやっぱり(改革と)癌とが重なった時ですね。それが一番辛かったですね。
―― 前にお目にかかった時に、癌になった原因はストレスだとおっしゃっていましたけど、そのぐらいものすごい精神的なプレッシャーを感じてたのですか?
プレッシャーでしたね。ものすごかったですね。いつでも追い詰められて恐かったですよ。あんな恐いのもう嫌ですな。
―― 武田家の血を引いているということで、その200年の歴史に対する責任感みたいなものはありましたか?
そんな大げさなことはなかったと思いますね。この頃、ちょこちょこ講演なんかしろと言われるので、最近は付け足しておりますけどね(笑)
―― 座右の銘
「行不由徑(ゆくにこみちによらず)」
セコイことを考えずにひとつ王道を歩みなさい、と。親父がよく言ってたんですよ。小細工してこちょこちょやってても結局、大きな利益にはなりません。225年、会社を続けさせようとするならば、やっぱり王道を歩いて、小道に行って変なことをすることを避けなくちゃ、絶対続きませんな。
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